ドニゼッティの略年表
この略年表は、『ガエターノ・ドニゼッティ~ロマン派音楽家の生涯と作品』(グリエルモ・バルブラン/ブルーノ・ザノリーニ著、髙橋和恵対訳、昭和音楽大学発行、ショパン社発売)の、髙橋和恵氏による巻末付録をもとにしています。
1797年 | 11月29日、ドメーニコ・ガエターノ・マリーア・ドニゼッティは、北部イタリアのベルガモに生まれる。父アンドレーア、母ドメーニカ・ナーヴァ。 ベルガモ共和国、チザルピーナ共和国に併合される。 |
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1801年(4歳) | ヴィンチェンツォ・ベッリーニ生まれる。 |
1806年(9歳) | ベルガモに創設された慈善音楽学校に仮入学。その校長、ドニゼッティの生涯の師・ジョヴァンニ・シモーネ・マイルと出会う。 |
1813年(16歳) | ジュゼッペ・ヴェルディ生まれる。 |
1815年(18歳) | 10月、マッテーイ神父のもとで勉強するために、ボローニャに向けて発つ。 |
1816年(19歳) | マッテーイ神父のもとで対位法を学びながら、主に宗教曲を作曲。 初めてのオペラ《ピグマリーネ》を作曲。 ロッシーニが《セヴィーリアの理髪師》を作曲、ローマで初演。 |
1818年(21歳) | 11月14日、ヴェネツィアのサン・ルーカ劇場にて《ブルゴーニュのエンリーコ》が上演され、オペラ作曲家として劇場界入りする。 |
1819年(22歳) | 《ピエートロ大帝》を作曲、12月26日、ヴェネツィアのサン・サミュエル劇場で初演される。 |
1821年(24歳) | この2年のあいだは、宗教曲もしくは室内楽曲を多く作曲。 10月のはじめ、ローマに発つ。台本作家ヤコポ・フェッレッティと出会う。 |
1822年(25歳) | 《グラナダのゾライデ》がローマのアルジェンティーナ劇場で大喝采を浴びる。 ナポリでは《ジプシー女》が28回も再演が続く大成功を収める。しかし、待望のスカラ座で《キアーラとセラフィーナ》がひどい失敗に終わる。 |
1824年(27歳) | フェッレッティの台本によるオペラ・ブッファ《当惑した家庭教師》をローマのヴァッレ劇場で初演、諸外国を含む各地で上演される。 |
1827年(30歳) | ナポリで興行主ドメーニコ・バルバイヤ、台本作家ドメーニコ・ジラルドーニと出会う。《8カ月を2時間で》が大成功を収める(ヌオーヴォ劇場)。 |
1828年(31歳) | ジラルドーニの台本による《ローマの追放者》が、ナポリのサン・カルロ劇場で絶賛される。 ジェノヴァにオープンしたカルロ・フェリーチェ劇場に招かれ、ロマーニ台本の《ゴルゴンダの女王》を初演。 6月1日、ヴィルジーニャ・ヴァッセッリと結婚、ローマを後にし、二人でナポリに居を構える。 |
1829年(32歳) | 2本のオペラ・セーリア《賤民》《ケニルワース城のエリザベッタ》をナポリのサン・カルロ劇場で初演。ナポリの王立劇場の音楽監督に任命される。 ヴィルジーニャが早産し、一人目の子供を失う。 |
1830年(33歳) | ミラノのカルカノ劇場で《アンナ・ボレーナ》を初演、センセーショナルな成功を収める。この作品をもってロッシーニの模倣時代から完全に離脱。個性の認識。 |
1831年(34歳) | 同じカルカノ劇場で、ベッリーニも《夢遊病の女》を発表。 イタリアの各地でコレラが蔓延、ローマの劇場が封鎖される。その間、《パリのジャンニ》を作曲(初演1839年、スカラ座)。 スカラ座でベッリーニが《ノルマ》を初演、センセーショナルな成功を収める。 |
1832年(35歳) | ナポリのサン・カルロ劇場で《ファウスタ》を初演した後、ミラノへ向かう。ミラノのカノッビアーナ劇場では、不滅の秀作《愛の妙薬》が大喝采を浴びる。ロマン主義の軌道を定着。 ふたたびナポリに戻り、サン・カルロ劇場で《カスティーリアのサンチャ》を大成功させる。 |
1833年(36歳) | ローマのヴァッレ劇場で《サン・ドミンゴ島の狂人》を上演。6年の間に全ヨーロッパの70以上の劇場で上演されるほどの大成功を収める。 フィレンツェで《パリズィーナ》を上演。この作品で第二の飛躍を遂げる。 スカラ座の開幕で《ルクレツィア・ボルジア》を》初演。ドニゼッティのスタイルの確立。 ナポリの王立音楽院の教授に任命される。 |
1834年(37歳) | 《マリーア・ストゥアルダ》が、検閲との問題から《ブオンデルモンテ》というタイトルで上演される(ナポリのサン・カルロ劇場)。 |
1835年(38歳) | 初めてパリへ。1月24日、パリのイタリア歌劇場でベッリーニの《清教徒》が初演され、成功を収める。 ナポリに戻り、サン・カルロ劇場で傑作《ランメルムールのルチーア》を発表。 9月23日、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ逝去。《鎮魂ミサ曲》、歌とピアノのための《ベッリーニの死への追悼歌》を作曲。 父アンドレーア亡くなる。 |
1836年(39歳) | 《ベリザーリオ》をヴェネツィアのフェニーチェ劇場で上演、絶大な成功を収める。 母ドメーニカ・ナーヴァの逝去。 レジオン・ドヌール勲章受章。 コレラの蔓延のため、ナポリの劇場が閉鎖される。その間、歌曲集《ポジリポの夏の夜》、《弦楽四重奏曲 ホ短調》、ファルサ《呼び鈴》および《ベトリー》、《カレーの包囲》を作曲。 |
1837年(40歳) | 二人目の子供に続いて三人目の子供もすぐに亡くなり、妻ヴィルジーニャも他界。 コレラの再発。 《ロベルト・デヴリュー》がサン・カルロ劇場で上演され、その後、50もの劇場で再演されるほどの成功を収める。 |
1838年(41歳) | テノール、アドルフ・ヌリとの出会い。《ポリウート》を作曲するが検閲問題で上演禁止となる(1848年遺作初演、ナポリのサン・カルロ劇場)。 イタリアを離れ、パリへ移る。 |
1839年(42歳) | 《アルバ公爵》の作曲に入るが、未完成のまま終わる(マッテーオ・サルヴィーニによって完成され、1882年遺作上演)。 |
1840年(43歳) | 《連隊の娘》がパリのオペラ・コミック座で初演。フランス風コミック・オペラのスタイルで作曲。 《殉教者》(グランドオペラに仕立て直した《ポリウート》のフランス語改定版)がパリのオペラ座で上演され、成功を収める。ロマン派的叙情主義とフランス的嗜好を調和させた大作《ラ・ファヴォリータ》(《ニズィダの天使》の改作)を初演(パリ、オペラ座)。 12月、ローマへ向かう。 |
1841年(44歳) | 《アデーリア》を上演後、ふたたびパリに戻る。《ベリザーリオ》《ルクレーツィア・ボルジア》をフランス用に改作。 歌曲集《昼の集い》をイギリスのヴィクトリア女王に献上。 《ミゼレーレ》を献上したことで、法王から騎士の称号を授かる。 師マイルの78歳の誕生日を祝い、《カンタータ》を作曲。 《リータ》を作曲(1860年遺作初演、オペラ・コミック座)。 ドメーニコ・バルバイア逝去。 12月26日、《マリーア・パディーリャ》をミラノのスカラ座で初演。 |
1842年(45歳) | 《シャムニーのリンダ》を作曲。 スカラ座で、ヴェルディが《ナブッコ》を初演、立ち会う。 ボローニャでロッシーニの《スタバト・マーテル》の初演を指揮。ロッシーニから ボローニャの音楽院の学長就任の要請があるが断り、ヴィーンに向かう。 ケルントネルトル劇場にて《シャムニーのリンダ》が大成功を収める。 6月、宮廷楽師長に任命される。 7月、ミラノを経由して、ジェノヴァから船でナポリの家に帰る。シュテルリッヒ公爵家との出会い。そしてパリへと移動する。 |
1843年(46歳) | 1月、パリのイタリア歌劇場で《ドン・パスクワーレ》を上演、ヴェルディの《ファルスタフ》に繋がるドランマ・ブッフォを確立。 《ローアンのマリーア》がヴィーンのケルントネルトル劇場で大喝采を浴びる。 11月、パリで《ドン・セバスティアン》を初演、爆発的な熱狂を呼ぶ。 12月、ふたたびヴィーンへ戻る。 |
1844年(47歳) | 頻繁に病気の兆候が現れるようになる。 |
1845年(48歳) | 7月、ヴィーンを離れ、パリへ発つ。 12月、師マイルが亡くなる。 |
1846年(49歳) | 2月、フランスのパリ近郊、イヴリーの精神病院へ入れられる。 |
1847年(50歳) | 9月、病院を出て、10月故郷のベルガモに戻る。 |
1848年(51歳) | 4月8日、逝去。 |